昭和42年10月25日 夜の御理解


 信心をさせて貰うて、身に徳を受け、そしてそれが、子孫にも残る様な信心。そういうおかげを、お互いが頂きたいと。また、そこんところに、願いの焦点を置かなければならない。願う、これならば、幾ら願うても良いと思うですね。ところが、その、おかげおかげと、おかげばかりを願うとか、狙うという信心。なるほど、それは、お徳を受けられた先生達のところでは、もう本当に、それは、たまがるようなおかげを、やはり、受けてきておりますよね。それは、私どもの過去、私どもの先達である、久留米の初代なんかの場合でも、甘木あたりでも、特に、小倉あたりなんか、その、それこそ、飛ぶ鳥を落とすような勢い出のゴヒレイであった。人も沢山助かった。ところが、その、それが、二代に、三代に続いていない事実がある事でございますよね。ですから、もちろん、信者も、そのまま減って行ったという事は、信心を無くして行ったという事ですよね。なぜ、そういう事になって行くであろうかと。親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と、繁盛して行く道を、金光大神は教えておられるのにもかかわらず、そういう事になって行かないというのは、どういう訳だろうかと。それを、私、本当にあの、痛切に感ずるですね。
 昨日、櫛原の教会の御大祭を拝ませて頂いて、私ども、久留米におりました時分の、あの、勢いのあるご大祭と言うたら、大した事でございましたからね。本当にあの、久留米から、千人参りが、御本部に出来る様な時代ですから。それこそ、何ともかんとも言えんほどのゴヒレイでした。ところが、その時分の、ご信者さん方は、どこにかもう、チリジリばらばらという感じなんですね。ですからもう、とってもその、初代のご信心を、残っておるなら、それを掘り出さなければいけない。また、信心を受け継いでおらなければいけない訳なんですよね。ですから、どういう信心を、本当に頂いたら、間違いなく、そうした、子供にも、孫にも、また自分自身も助かっていけれるかという事をね。かという事を思うんですけれどもね。
 今日はあの、昨日は、善導寺の原さんのところの、省一郎さんの結婚式が、ここで、大変厳粛に、それも、賑やかに出来たんですけれど。今日、そのお礼に、夫婦で出て見えましてね。もう本当に、感激一杯なんですよね。三人の娘さん達を、去年まで、まぁ二年おきぐらいに、ずっとこう、片付けておられます。片付けておるというて、そのまぁ、縁につけておられます。それぞれ、おかげを蒙っておる。同時に、今度は、引き続いて、去年が千恵子さんでしたが、今年は、長男の昌一郎さんが、奥さまを貰う。もう、いわば、親としての責任が、これでまぁ、やや、取れたといった様な、安心のおかげを頂いて。そしてまぁ、夫婦で話されることなんですね。もう本当に、どげん考えたっちゃ、俺どんがごたる夫婦、俺どんのような、何にも出来んもんがね。本当に、三人の娘を、あげな風に、本当に人からも、まぁ褒めて貰うぐらいに、その、しつけも一通りのことはしてやられてから、それぞれに、幸せな生活を送らせて頂けれるように、おかげを頂いて。最後に、この昌一郎の嫁をまた、こうして迎える事が出来て、本当に、別に、それだからと言うて、それも、近所の方が、もうとても、あんたん方は、よっぽど金を貯めてあったじゃろという訳ですね。続いて、娘さん達をやられて、そして、引き続いて、去年、娘の御祝儀をしたかと思うと、今年はもう、長男の御祝儀をしておる。よっぽど、あんた家は、金ば貯めちゃったじゃろと言うて。とても、私どんが出来る事じゃなかと言われてですね。ほんにお父さん、こりゃ、考えてみれば見るほどに、別に、何も蓄えは無かったんだと、何時の場合だって。昨日、ご祝儀が終わってしもうてから、そして、今朝から、まぁ何ですか、お祝いのお包みを、みんな開かせて頂いてですね。もう本当に、まあ言うならばですね、余らず足らずという事ないというおかげがあったと、こう言うのですね。だから、いつの場合もその、こりゃ、原さんに限らず、ここで、熱心に信心を頂いておるものは、それなんですけれどもね。さぁ、金光様に参りよるけん、いっぺんに、家が美しくなったとかですね。財産が出来たといった様なものじゃないですけれども。もう、いつの間にか、何とはなしに、一家中の者が、十何年間、お医者にもかからんですむ様なおかげを頂いておる。そして、別に、金が、これだけ貯まっておる訳じゃないけれども、人様な時には、必要に応じての、心配も何も要らん。それは、それなりにおかげを蒙ってきておるという事なんです。そしてまぁ、あーた、本当に、私共には、勿体ない様に沢山、この嫁さん、お道具を、沢山、立派なものを持って来ておるそうでございますが。もう、どげん考えたっちゃ、お父さん、勿体ないと言うて話したら。お父さんも、大体、あんまり、ピンと来んほうですばってん、ほんなこつ、そげん、言われておるねち言うてから、もう話しましたと言うて、今日、二人で話しております。そして、とても、本当に、夕べも、主人と、こげん話しましたが。もう、私どんに、信心が無かったなら、あんた、どげんなっとるち思うのち言うてから、話しましたと言う訳ですね。
その、肝心要の、昨日の、花婿さんでいらっしゃる昌一郎さんの場合なんかは、もう、死ぬるばっかりのところであったしね。今日はあの、久保山の奥様が来てから、そげん話しておられましたが。ちょうどもう、今日は、亡くなられると言うので、親戚の者は、葬式の用意してやって来ておった。ちょうど、お月次祭であったから、お導きしてお参りしようと言うたけれども、とても、私どもは、そげな段じゃありまっせんというて、奥さまが言われた事を、私が、ようと知っておりますからですね。昨日のその、ご祝儀、昨日の結婚式は、もう、ひとしお、もう本当に有難い事であったというて、奥さんが言うておられますように。もう本当にですね、ほんなら、(夕べの看板あげてこられるようにありますけども、?)どこの店より?盛しよらんごたあるですね、いうならば。そして、よそにお客さんが来てからですね。あんたげにゃあんた、金光様にばっかり参ってから、仕事は、いっちょん、なかじゃんのというところはいつも借金で苦しんでござる。過去の、私どもがそうじゃったち言うのです。仕事は、確かに、ありよるごたったけれども、さぁ、盆節季の借金ち言うたら、結局、みんなは払われずに、その断らなければならなかったのがです。さ程に目立った仕事もないのに、借金もなし、いや、あったのは払うてしもうて、子供達は、次々と片付いて、しかも最後の、昌一郎さんの結婚式に、いわば、まぁ、ゴールインされたといったような感じなんですね。そして、神様のおかげ、神様のお働きというものは、ただただ、もう口には現わされんと言うて、今日は、もう夫婦の方が、芯から、その事を、お礼お届けされました。
 私はですね、金光様のご信心を頂いてですね。そういう様なおかげを頂いて行きよれば、こりゃ、間違いないと思うですね。例えば、どういう金が要る時であろうが、どういう場合、どういう事情であろうが。そういう時に、驚かんで済み。そういう時にです。さぁ、お父さん、どうするのと言うて、てんやわんやするのではなくてです。例えば、金銭ならば、余らず足らずと、もう本当に、神様が、こうやっておかげ下さる。そういう神様の働きをです。もう実感して、日々の中に頂いて行きつつある、そういう信心なんです。こういう信心ならば、絶対なんですよ。神様のおかげが、もう浸み込んでくるです。神様のおかげを頂かなければ、頂けるこっじゃないち言う事。
今日は、あの、中村さんも、参って見えて、お爺ちゃんが、ちょうど、この、十九日の、合楽会の日から、手足が動かれなくなって、休んでおられるそうです。ばってん、本当に、先生が言われるように、もう本当に、足いっちょでん、先生、自分で動かせるこっじゃございませんですばいち、今日来て、もう本当に、涙流してお礼を言われるんですよ。神様のおかげ頂かなければ、足・・・もうとにかく、私が、なえとる時と、いっちょん変わらんです、話を聞いてみると。痛みもせん、痒くもないそうです。けれども、それは、自分の足を、上にこう上げる事すらが出来ないようにですね。本当に、ここまで歩いて来よるごたるばってん、歩かせて頂きよると言う事が、先生、分かりますちいうて、今日は、その爺の病気から、そんなものを、日頃の教えを、本当に感じますち言うてから、言うておられます様にですね。そういうものが、分かって行く信心です、問題は。お願いしたつば、頂いたと。ほら、これがおかげと分かるのじゃなくてですたい。現在、本当に、頂いておるおかげを、おかげと分からせて貰い。そして、いうならば、その日その日の生活の中にもです。本当に、神様におかげを頂かなければ出来る事ではないというように、どういう、ほんなら、結婚式と言われるような事でございますけれども、余らず、そして、足らんという事もなく。もう本当に、こう、おかげを頂いておる。そういう、まぁ素晴らしき、その日暮らしとでも申しましょうかね。ぐんのみから、あーっとあって、それを払うてしもうたら、後はもう、その、さぁ、この方に頂かにゃならんといった様なですね、ものではなくてですね。もう、何時もかつもが、そういう有難い信心生活が、そういう有難いという実感のある有難さを感じていけれるような信心が頂けていないところに、二代に続かないのであろう、三代に続かないのであろうと、私は思うですね。神様のおかげで、いうならば、親先生のお徳で、そりゃもう、飛ぶ鳥を落とす様なおかげも頂いたけれども。さぁ、親先生がおられなくなったら、もう、尾羽をうち枯らしてしまう。そして、信心まで、しまえてしまうといった様なですね。事では、金光様のご信心ぶりというものを、本当に、身につけていなかったと言わなければ仕方がないのでございます。
 今日、鳥栖の上野さんが、もう、ここ半年もばかりでしょうか。今度、佐賀大学にですね。佐大、佐賀大です。卒業論文を書かせて頂くのを、宗教と教育というテーマで、卒業論文を書かなきゃならん。そのために、例えば、自転車で御本部参拝もさせて頂くと。本当に、実感の伴っておかなければいけないというところから、修行しておるわけですけれども。皆さんも、ご承知の様に、あーした、打ちこんだ御用が出来ておる訳ですね。けども、どうもその、ぴったりとしたものが出来上がらない訳なんです。で、今日はまぁ、思いあまって、親先生、何かそこに一つ、ヒントを与えて頂きたいと言う訳なんです。そうのー、そげな難しかこつば、私だん、説明はし切らんばのち。けども、そら、何かおかげ頂かにゃいかんですたいね。そら宗教とは何ぞやなんては、もう、正面切って言われたっちゃ、そらもう、どげん、説明のしようがなか、いうならば。日ごろ、こうやって、おかげを受けておる。そのおかげを受けておる事を、人に伝えてはおるけれども。さぁ、正面切って尋ねられると、いうなら、学者から、言われると弱いですね、私共は。学が無いから。神様に、その事をお願いさせて頂きましたら、頂きます事が、寛という字を頂くんですね。広いという字、う冠に、草冠書いて、見ると書いてある。ははぁ、宗教とは、こう言う風なもんだと思ったんですね。う冠というのは、この天が、宇宙の事であろうと思うですね。宇宙、宇宙の宇ですね、う冠。それから、草冠というのは、これは、私が、何時も言うように、さんずい辺とか、草冠とか、自然という事ですね。成り行きと、自然。草冠、自然。その宇宙の事、一切をです。その成り行きを、そのままに、素直に見るという事なんです。それを、教祖は、肉眼をおいて心願を開けとも仰っておられる。肉眼をおいて神願を開かなければ、それを、素直にです。素直に、それを見る事が出来ないのです。
例えば一つの、難儀な問題が起こったり、天変地変といった様な事があるとです。あぁ、もう神も仏もないものかといった様な事になってくるのです。そこには、そこに、神様の、一分一厘の間違いのない働きの中から、それが起こっておるんだと、悟らせて貰うて。その神様のお心を心として、生活をして行く。そういう道を歩かせて貰うというのが、宗教なんだ。いうならば、神の心を心としてです。それをもっと言うならば、天地の心を心としてです。それをもっと言うならば、大地の心を心として、天の心を心としてという事になるのです。そんならば、大地の心とは、どういうような心か。私は、ここのところを頂く時に、感じたんですけれども。四神様の御教えの中に、大海のような信心をせよと仰るね。あれはあの、大きなおかげを、クジラの様なおかげを頂きたいならば、大海のような信心をせよであってね。あれは、ただ、清濁相飲む。どういうものが流れ込んできても、黙って受けるといった様な感じで、お説きになっておられますけれども。それではないですね。大地の心を心とするという事はですね。なるほど、どういう、ほんなら、汚物というかね、肥やしのようなものを、大地に持ってこられましてもです。それを、黙って受けるというところまでは同じですよね。大海と。けども、それによって、今度は、大地そのものが、肥えて行きよるという事なんです。自分自身が、いわば、沃道と化して行く訳なんですね。痩せた土地でも、それによって、かえって、肥えて行きよる訳です。それだけではない、そこに生える、草やら、木やらに、それを、はぐくみ育てるというか、そういうものを、持ってる働きをする訳なんですね、大地とは。だから、信心でいうならばです。例えば、私に、腹の立つような事を言うた人の事なんかでも。それを、有難く受けるというのが、それです。で、自分の心を、いやが上にも、豊かに肥えてくる訳です。黙って、それを頂く。合掌して受ける。しかも、その、敵のような人の事を祈らせて貰う。そこにこう、祈り送っておる訳です。そういうです、大地の心を心としてという信心が、必要だという事なんです。金光様のご信心は、それなんです。大地の心を心としてのあり方に、なかなか、難しいけれども、そこが分かってくると、そうしなければ馬鹿らしくなってくるて。
次には、天の心を心とするという事です。天の心は、どういう事かと言うとですね。もう、無条件に与えるという事なんです。無条件に恵んでおるという事なんです。それこそ、天から降るように、お恵みを下さる訳ですね。如何に、降るように下さっても、俺がやっとろうがと言うて、恩付けがましいことを仰る訳ではない、天というのは。いわゆる、恵みっぱなしなんです。いわゆる、条件が無い。そこを、教祖は、真心と仰っておられる。真心とは、条件の無い事。私どもが、いわば、様々な事に奉仕する。その、奉仕という事は、もう、条件の無い働きなのである。条件の無い、神様にこれだけお供えしとるけん、これだけはおかげは貰わにゃんというもんじゃないという事。あの人に、こげんしてやったばってん、お礼も言うちゃなか。というのは、もう天の心ではないという事。もう、与えっぱなしなのだ。その、天の心を心として行くという事。そこを、教祖の神様は、真心と説かれた訳です。同時に、ほんなら、これひっくるめて、天地の心を心とするという事です。天地の心を心とするという事は、もう天地ほど、実意な方はないという事。天地金の神様のほど実意な方はないという事。もう、それ、そのままが、実意の、丁寧の権化であるという事。塊であるという事。天地が、一分、怠られたら、天地が、一分、実意を欠かれたら、もう、この世は暗闇。
太平洋の、例えば、水が、一分ずつ多くなったらですね。あの富士山が隠れてしまうそうですよ。それこそ、天地が、破壊になってくる訳です。そういう事をもう、一分一厘の間違い無く、しかも、寸断なくですね。もう、その暇もないように、天地は働きに働き通しておられるという事なんです。だから、神の心を心とする、天地の心を心とするという事は、そういう事なんだ。そこを、教祖の神様は、実意丁寧神信心と説かれた訳なんです。ね。なぜ実意にならなければいけないか。天地の心と一つになる為なんだ。天地が水なら、私どもも、水になろうと、本気で努めなければならない。天地が油ならば、私どもも、本気で油にならなければ、これが一つにならないという事なんだ。そこに、天が水なのに、私共が、油だから、何時も、ぴったり来ない訳です。そこを、素直な心でと、こう仰る。氏子が神様任せなら、神様が、氏子任せになると仰せられるほどの、いわば、大言壮語、神様は、そういう事を言うておられるんですよね。こら、私が、金光様から頂いた御教えなんですけれども。それほどに、神様はです、私どもの上に、一緒になろうという事、一緒になりたいという事を願っておられる訳です。氏子と一緒になりたいと、こう願っておられる。それは、私共が、素直な心で、神様任せになる時にです。もう、任せになる時に、もう一つになっている訳です。一滴の水であっても、神様は、大海の水であっても。もう、一滴の水もなからなければ、大海の水もない。それはもう、一つであるという事。もう渾然としたものなのである。そこに、大天地の助かりがあり、小天地の助かりがあり、神も助かり、氏子も立ち行く道が、そういうところから開けてくるのです。いわゆる、天地の心を心とするという事は、そういう事なのだというような事を、もっともっと懇切に、今日、頂いたんです、その上野さんが。宗教とは、そういうような働きをするもの。また、そういう事を目指すものなのだ。そこを、眼ざしの根源としなければならないのだという訳なんです。そして、私は、この事をです、何時も、こういう風に、まとめてじゃないけれども、あらゆる角度から、この事を、皆さんに、気いて貰っておるという事なんです。そういうようなものをです。
まぁ、例えば、今日の原さんの場合なんかは、いわば、身を持って、十何年間、やはり、行じ抜いて、行じ抜いてと言うと可笑しいですけれども。もう、難しかっても、それを、いわゆる、親先生任せ、親先生任せで、一生懸命、十七年間、夫婦のものが、毎朝、お参りし、夫婦のものじゃないですね、あそこは、親子三人ですから。まぁ、娘達がおる時は、娘達もみんなでしたよね。家族中のものが、そういう信心生活に、一生懸命に、努めておるところに、もう天地が、原さん任せになっておられる姿が、現在の姿であると言う事である。別に、金万長者になった訳でもなからなければ、金銀玉露のお家に住まわれた訳でもないのだけれどもです。そこに、日々が、余らず、足らずという。何とも言えん、神様の働きの中に、あれもおかげであった、これもおかげであったと分からせて頂きながら、信心生活を続けて行く。こう言う信心生活が続けられて行く限りです。これは、よし、私が亡くなっても、この信心だけは残ると思うですね。もう、天地と一緒になってるんですから。渾然として。私は、そういう信心をですね、皆さんが、ほんとに、身につけていって頂きたい。合楽では、その事を、私は、もう明けても暮れても、いわば、説いておるように思うのです。
今日は、その事をですね、天地の心を心としてという事を、色々こう、分解した訳ですね。大地の心。まず大地の心を心として。そして、天の心を心として、そこに、実意とか、真心とか、というような表現を持って、教祖は、そこを説いておられる。それを、私は、まぁ現代風にですかね、言うならば。教祖の時代に、和服の姿で説かれたならば、私は、人間そのものは変わらんでもですね。やはり、それに、洋服を着せて説いているような感じがするのです。ですから、こう言う生き方さえ、お互いが、体得させて頂いたらですね。もう、絶対、幸せ間違いない。それは、子供の、孫の代に至るまで、いよいよ、それは、繁盛のおかげになって行かん事が無いのですよ。ただ、おかげを頂く。ただご利益。ただ、このことば頼まんならんからという事に、終始した信心が、もし、一生、続いても、それこそ、本当に、神も仏もないようにです。いざという時には、もう、信心すらが無くなっておるというような事になってくる。じゃないのですよね。私は、こう言うところを一つ、本気で一つ、勉強をさせて貰い。また、自分の信心の信条と。いわば、自分の信心の中身のものとして、それを培うて行くというかね。頂いて行くところの体験を、日々の、生活の中から、日々の、また稽古の中から体験して行く。それを、頂いて行かなければならんといったような事を感じますですね。
そういうことを、私共が、少しでも、本当に、そうだなぁと、思い込んだらです。そこから、そこから願いです、信心の。そうだなぁと、今日、私が申しましたような事をですね。本気で、そうだなぁという、そういう天地の道理を、そうだなぁと思うたらね。そこから、小さい小さい根ではあるけれども。大地に向かっての根が生えて行く。そして、その根が、いよいよ、肥えてくる。そこに、こう、しこってくるところのおかげを、繁盛というのじゃないでしょうかね。どうぞ。